性と宗教 統一教会 合同結婚式 courrier 分析レポート
このサイトのデザインの良いところ
このサイトのページは、
講談社現代新書の『性と宗教』の内容を、著者である島田裕巳先生の講義動画を会員登録させて観てもらうための誘導サイトである。
なので、サイトの構成として、
あらすじやあらまし説明、その下に宣伝バナーデザイン画像、その下に会員登録誘導ボタン、のように表示されている。
私はサイトの文章を読んで、このテーマについて深掘りしてみたいな、もっと知りたいな、と思わされた段階で、宣伝セクションに移ったので、非常に気持ちの良い宣伝のやり方だなと感じた。
またバナーデザインも、くすんだ小豆色のような色を使っており、それが「落ち着き」「知識提供」といった文脈にふさわしい格調を与えていると感じた。。
知的関心層をターゲットにする時は、くすんだ暗い色、グレイッシュな色を採択するのが良いということだ。

このサイトを読んで感じたこと
このサイトの筆者は「キリスト教において聖職者が独身を守る理由の根本には、イエス・キリストが生涯独身だったことが影響している。」と述べているが、この意見はもう少し整理が必要だと感じた。
CHRISTIAN TODAYサイトでは「何世紀にもわたってカトリック教会の聖職者に義務付けられてきた独身制」と述べられているが、
そもそも、生涯独身を義務付けているのは、カトリック教派であり、プロテスタント教派は聖職者でも結婚や妻子を持つことができる。
なのでこの独身制の話はカトリックに限る。
また、文中で「旧約聖書の「創世記」」「食べてはならないと神に言いつけられていた木の実を口にしてしまったアダムとイブは、イチジクの葉で体を隠すようになる。」「それならこの「原罪」をいかにあがなうか。儀式によっていかに「ゆるし」を可能にするか──その仕組みをつくってゆくなかで、キリスト教のなかには性をタブー視する考え方が生まれた」と述べられてるが、
「体を隠すようになった=性欲」という因果関係について、もう少し深掘りたい。
まず、アダムとイブは、最初の頃は、裸で楽園をウロチョロしていた。
そこで木の実を食べたら、急に自分が裸であることが恥ずかしくなった。
その木の実は、知恵の実であり禁断の実であるから、神は禁じていた。
というストーリーであると私は解釈している。
だが、聖書そのものでは、それは性欲であると結びつけてはいない。
ではなぜそれが、性欲だという教義になったのか。
カトリックではアウグスティヌスの原罪論を取り入れており、
悪=善の欠如という記事では、「彼らの原罪は「罪を犯してしまう性質」」と述べている。
おそらく、「恥じる」という感情は性の領域の特有感情であるということだと私は推測する。
自分の裸を他人に見せることは、他人相手の性的欲望を刺激するという因果関係があるからだと考えられる。
そのような経緯から、キリスト教では、性をタブー視する教義が広まったのではないだろうか。
そして統一教会は、この原罪ストーリーを最重要視している教派になる。
性のタブーを清めることに重きを置いているため、「合同結婚式」という形式儀式を信者に強制し、自由恋愛や、自由恋愛上の結婚相手選びを禁止することによって、罪である人間の醜い性欲をコントロールしている。

出典(
https://note.com/tetsugaku_ch/n/n2c2cdc932593
)